津久井やまゆり園の事件のこと

津久井やまゆり園の事件のことが頭から離れない。

優生思想がこれほどまでに「滑りやすい坂」だとは知らなかった、自分の無知に愕然とする。

彼が精神障害持ちだったり薬物の影響下にあったという報道もあるけれど、仮にそうだとしても、犯行にどの程度影響したかはまだ明らかではない。当初「まとまりのない内容」と報じられていた犯行予告文は、陰謀論に侵された箇所を取り除くと、ある前提さえ認めてしまうならむしろ正常な思考とまじめな使命感の産物のように読める。

彼の本当の動機は個人的な鬱屈や絶望感にあり、それを正当化できる捌け口を求めただけなのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、池田小事件や秋葉原事件の加害者が自暴自棄を隠そうとしなかったことと比べると、彼は「自らの感情にまかせて人を殺してはいけない、殺すならしかるべき理由がなくてはならない」という倫理観を持っていた。

「重度障害者は家族や社会を疲弊させ、不幸しか生み出さない。生きている価値がない。彼らは人間ではなく動物として生きている。その線引きは意思疎通ができるかどうかだ」

という思想を彼が本気で信じていたことは、入所者のみを標的とした犯行の手口を見ても明らかだ。

そのような思想は間違っている。そのような倫理観と使命感は身勝手で狂っている。しかし今となっては、せめて、精神障害や薬物のせいで意味不明な妄想にとりつかれたためだ、とか、自暴自棄に陥ったためだ、と犯行を説明できるなら、と思う。そのようにして、“正常”である私たちと“異常”である犯人を切り分けることができたなら、と。

殺人に至るかどうかはともかく、彼の思想そのものは、私たちの社会において、ただちに異常な考え方と棄却できるほど珍しくはない。馴染みの薄い宗教原理主義の論理と違って、私たちの中に感化される人が現れてもおかしくないのだ。

私たちは、犠牲となった方たちの名前を知らない。人となりもわからない。しかし、彼は自分が刺した相手が誰か、どんな人か、よく知っていただろう。重度知的障害のある人たちと日常的に接する機会のない私たちの大部分と異なり、彼は当該施設の職員として日々接し、ケアに関わっていた。そのアクチュアリティの中で優生思想が練り上げられてしまったということを深刻に受け止めなくてはならない。

私たちは、犠牲となった方たちの名前を知らない。人となりもわからない。しかし、加害者がどんな人で、なぜ殺したかは“理解”してしまった。蒸留された憎悪を、中和するものがないままに浴びてしまった私たちは、事件について非対称な理解を余儀なくされていることに自覚的でなくてはならない。

彼がこの社会が生み出した怪物であり、事件が時代の必然的な帰結であるかのような論を、僕は買わない。特異な事例をもとに社会を語ることには慎重であるべきだ。しかし、この事件が社会を変容させ、隠されてきたものを露出させる原因となる可能性は十分あると思う。

優生思想は「滑りやすい坂」だ。

真剣に向き合おうとするなら、命綱をつけて慎重に降りないと、転落して戻ってこられなくなるかもしれない。

坂の下にあるものに共感してしまっても、いや、共感しやすいからこそ、それは間違っている、と何度でも否定しなくてはならない。

自傷他害を繰り返し、周囲に暴言や暴力をふるう人であっても、自分の意思を表現することも他人の意思を理解することも困難な人であっても、私たちが見知った“人間性”からどれだけ離れて見える人であっても、すべての人が生きる権利を持ち、その尊厳を侵してはならないと誓わなくてはならない。

ひそかにささやかれる、偽りの“自然さ”を退けなくてはならない。

障害の有無にかかわらず、私たちの間に線を引くことを許してはならないのだ。