人生はゲームではない

人生はゲームではない。

でも人生はあらゆる局面において、ゲームでもある。学校、会社、家庭、受験、就活、転職、恋愛、結婚、育児、商売、投資、消費、……すべてがゲームになっている。なぜなら、わたしたちが人生をゲームに「する」からだ。ずっとそう刷りこまれ、たえず互いにそう確認しあってきたからだ。なによりわたしたち自身が、人生はゲームであってほしいと望んでいるからだ。

ゲームのルールは文章などで明示されていることもあるけれど、本当のルールブックはその何倍も何十倍も分厚い。ふつうは、ゲームを続けるうちに、徐々に暗黙のルールを発見できるようになっているし、またそうすることが期待されている。すぐにゲームのルールを覚え、その中でどのように立ち回ればよいか把握する人がいる一方で、なかなかルールに順応できずに苦労する人もいる。ゲームのルールは時とともに変化するし、人によって持っているルールブックも違うのでややこしい。しかしもちろん、ゲームに詳しく、変化にも適応できる人ほど、優位に立てるわけである。

おーけー、おーけー。で、それになんの意味があるのか。

人生に意味がないように、ゲームにも意味なんてない。それなのに、わたしたちはゲームで優劣を決することを欲し、優劣を決するからには意味があると勘違いし、人生そのものがゲームであると考え、あげく、ゲームこそが人生であると考えるようになる。

僕は誠実であることは大事だと思う(自分が実践できているかはあやしいけれど)。ところで、誠実さというのは、ゲームの中で担保されている。たとえば「働く人に相応の給料を払う」とか「配偶者や恋人がいたら他の人と性的関係を持たない」とか。こういう規準に背くのは、ふつう不誠実とみなされるだろう。それはゲームのルールだから、違反したら罰則が課されることもある。

でもこういった誠実さを成り立たせている前提は、実は全く自明ではない。マルクスは「労働の対価としてお金が払われるなどという驚くべきことがなぜ可能なのか」という問いを追究した。後者の例に取り組んでいる人たちもいる(具体的な名前が出てこなくて申し訳ないですけど、社会学者とかジェンダー論の研究者とか)。学者に限らず、さまざまな形でゲームを支える構造じたいと格闘している人たちを、僕は何人も知っている。

不誠実であってもかまわない、と言いたいのではない。誠実であることはやはり大事だ――そのゲームの中にいることを選ぶ限り。けれど、不誠実よりもっとやばいのは、ゲームの中にいることを忘れるほどに没頭してしまうことだ。本人だけならよいけれど、没頭すればするほど、ゲームに詳しくなるから、やがて他の人にゲームを教えるようになる。したり顔でルールを教えるのはよいけれど、それがゲームであることは教えなかったりする。そりゃそうだ、本人だって気づいていないのだから。他の人がゲームから降りたり、他のゲームに乗り換えたりするのを妨げるようになると、いよいよ呪いだ。でも本人には悪気などまったくないどころか、善意に満ちている。そりゃそうだ、その人にとっては、ゲームが人生なのだから。

あなたにも私にも、生きている意味などない。みな平等にいつか死ぬし、あなたや私が生きようが死のうが、世界がこれっぽちも変わることはない。生きている意味が見つかるとすれば、それじたいに意味のないゲームの中でだけだ。

でもだからこそ、生は素晴らしいんじゃないですか。

誰も自分が生きている意味を背負う必要はない。ゲームを続けてもいいし、やめたっていい。他のゲームを選んでもいい。それはわたしたちの持つ最大の自由だ。 ゲームが上手だろうと下手だろうと、なんの意味もない。続けることにもやめることにも、なんの意味もない。どれが良いとか悪いとか偉いとかいうことはない。

そして、やめた後にだって、ちゃんと人生は続いている。