フジテレビ番組と映画『ドリーム』から考える、差別とは何か(続)

フジテレビが、男性同性愛者を揶揄するキャラクターを復活させる番組を放送し、抗議を受けて「差別の意図はありませんでした」と釈明したとのこと。

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これは次の2点において、差別とは何かをよく示しているニュースだと思いました。

  1. 差別の許容水準は時代とともに変化するということ
  2. 差別は意図の問題ではないということ

まさに差別のこうした側面を描いた映画『ドリーム』が今週末から公開されています。『ドリーム』は1960年代初頭の米国を舞台に、有人宇宙飛行計画に携わった黒人女性たちが逆境に直面しながらも筋を曲げずにがんばる痛快な娯楽作品なのですが、一方で差別とは何かを考える材料を提供してくれるかっこうの作品でもあり、そして今につながるアクチュアリティも兼ね備えている、と前回の記事で書きました。

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1960年代の米国というのは、公民権運動の時代でした。黒人が白人と平等の権利を求めて戦う中で、それまでの差別の許容水準が激しく揺れ動いた時期にあたります。主人公たちが運動に直接関わることはありませんが、その過渡的な時代背景は彼女たちの人生にも大きな影響を及ぼします。

現在を生きる私たちの感覚では、映画の中で描かれる差別のありように驚かされます。レストラン、図書館からトイレ、コーヒーポットに至るまで、白人の使うものと有色人種のためのものが厳しく分けられているさまは、グロテスクというほかありません。しかし、わずか半世紀前の人々は、差別する側も差別される側も、それを当たり前のこと、しかたのないこととして受け入れていたのです。

性的少数者をめぐる差別をめぐっては、現在進行形で許容水準が変動している最中です。諸外国の同性婚法制化の流れとLGBT概念の普及とともに、5年前と今とでは状況が一変したと言ってもいいでしょう。そのような急速な変化に戸惑う人も多いでしょうし、なぜ30年前、5年前には許されたことが今はダメなのか理解できない、息苦しいと感じる人もいるでしょう。しかし、ひとつ確実なことは、1960年代米国における白人と黒人の関係を今の私たちが異様だと感じるように、少し前までの性的少数者に対する社会の態度もまた、半世紀後の人々にとっては、異様でまったく非合理なものとして感じられるようになるだろうということです。

また、「差別する意図はなかった」というのはよく見られる釈明なのですが、これは差別の本質を理解していない発言です。差別は意図の問題ではなく、機能(ある行為や態度が現行の社会のありかたを維持したり変えたりする上で果たす役割)の問題だからです。『ドリーム』に登場する白人の中には、悪意を持って黒人を差別する人間は、実はほとんどいません。白人と黒人の生活空間が厳格に区分され、差別が制度や社会の構造に組み込まれている状態のもとでは、マジョリティは悪意すら持つことなく、自然に、差別的なふるまいを取ることが可能だからです。可能であるだけではなく、そのようなふるまいしか選択肢がない、とさえ言えます。白人が黒人を差別的でなく扱うことは、現行の社会のありかたに反する行為であり、そうとうの勇気と覚悟が必要とされたことでしょう。

「保毛尾田保毛男」というキャラクターを生み出した芸人にも番組の製作者にも「差別の意図はなかった」という説明を僕は信じます。しかし、意図がなかったにも関わらず、差別的な表象を生みだしてしまったのだとしたら、それは意図的な差別よりもさらに悪い状況です。この属性を持つ集団ならば攻撃してもいい、という判断を下すために悪意さえ必要ないならば、それはとんねるずだけの問題ではなく、テレビ業界全体がそのような水準を採用しているからと考えられるからです。そうした水準に裏打ちされたふるまいがメディアで正当化されることが、どれだけ当事者の安全を危うくし、生き方を毀損するか、製作側はもっと敏感になってほしいなと思います。

この問題に関するいくつかの記事

「『知らない』は社会の責任だ -保毛男田保毛男の一件に関して-」 | フミノ | note

  • 三橋順子さんは、テレビで男性同性愛者が笑いの対象とされるようになったのは1990年前後以降であり、その契機がまさに「保毛尾田保毛男」だったのではないか、と指摘しています。

メディアにおける性的少数者への差別(メモ):続々・たそがれ日記:So-netブログ

  • 映画『ドリーム』については、朝日新聞GLOBE掲載の試写会イベントの報告もおすすめです。

映画が現実を動かした~『ドリーム』 -- 朝日新聞GLOBE