人生はゲームではない

人生はゲームではない。

でも人生はあらゆる局面において、ゲームでもある。学校、会社、家庭、受験、就活、転職、恋愛、結婚、育児、商売、投資、消費、……すべてがゲームになっている。なぜなら、わたしたちが人生をゲームに「する」からだ。ずっとそう刷りこまれ、たえず互いにそう確認しあってきたからだ。なによりわたしたち自身が、人生はゲームであってほしいと望んでいるからだ。

ゲームのルールは文章などで明示されていることもあるけれど、本当のルールブックはその何倍も何十倍も分厚い。ふつうは、ゲームを続けるうちに、徐々に暗黙のルールを発見できるようになっているし、またそうすることが期待されている。すぐにゲームのルールを覚え、その中でどのように立ち回ればよいか把握する人がいる一方で、なかなかルールに順応できずに苦労する人もいる。ゲームのルールは時とともに変化するし、人によって持っているルールブックも違うのでややこしい。しかしもちろん、ゲームに詳しく、変化にも適応できる人ほど、優位に立てるわけである。

おーけー、おーけー。で、それになんの意味があるのか。

人生に意味がないように、ゲームにも意味なんてない。それなのに、わたしたちはゲームで優劣を決することを欲し、優劣を決するからには意味があると勘違いし、人生そのものがゲームであると考え、あげく、ゲームこそが人生であると考えるようになる。

僕は誠実であることは大事だと思う(自分が実践できているかはあやしいけれど)。ところで、誠実さというのは、ゲームの中で担保されている。たとえば「働く人に相応の給料を払う」とか「配偶者や恋人がいたら他の人と性的関係を持たない」とか。こういう規準に背くのは、ふつう不誠実とみなされるだろう。それはゲームのルールだから、違反したら罰則が課されることもある。

でもこういった誠実さを成り立たせている前提は、実は全く自明ではない。マルクスは「労働の対価としてお金が払われるなどという驚くべきことがなぜ可能なのか」という問いを追究した。後者の例に取り組んでいる人たちもいる(具体的な名前が出てこなくて申し訳ないですけど、社会学者とかジェンダー論の研究者とか)。学者に限らず、さまざまな形でゲームを支える構造じたいと格闘している人たちを、僕は何人も知っている。

不誠実であってもかまわない、と言いたいのではない。誠実であることはやはり大事だ――そのゲームの中にいることを選ぶ限り。けれど、不誠実よりもっとやばいのは、ゲームの中にいることを忘れるほどに没頭してしまうことだ。本人だけならよいけれど、没頭すればするほど、ゲームに詳しくなるから、やがて他の人にゲームを教えるようになる。したり顔でルールを教えるのはよいけれど、それがゲームであることは教えなかったりする。そりゃそうだ、本人だって気づいていないのだから。他の人がゲームから降りたり、他のゲームに乗り換えたりするのを妨げるようになると、いよいよ呪いだ。でも本人には悪気などまったくないどころか、善意に満ちている。そりゃそうだ、その人にとっては、ゲームが人生なのだから。

あなたにも私にも、生きている意味などない。みな平等にいつか死ぬし、あなたや私が生きようが死のうが、世界がこれっぽちも変わることはない。生きている意味が見つかるとすれば、それじたいに意味のないゲームの中でだけだ。

でもだからこそ、生は素晴らしいんじゃないですか。

誰も自分が生きている意味を背負う必要はない。ゲームを続けてもいいし、やめたっていい。他のゲームを選んでもいい。それはわたしたちの持つ最大の自由だ。 ゲームが上手だろうと下手だろうと、なんの意味もない。続けることにもやめることにも、なんの意味もない。どれが良いとか悪いとか偉いとかいうことはない。

そして、やめた後にだって、ちゃんと人生は続いている。

フジテレビ番組と映画『ドリーム』から考える、差別とは何か(続)

フジテレビが、男性同性愛者を揶揄するキャラクターを復活させる番組を放送し、抗議を受けて「差別の意図はありませんでした」と釈明したとのこと。

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これは次の2点において、差別とは何かをよく示しているニュースだと思いました。

  1. 差別の許容水準は時代とともに変化するということ
  2. 差別は意図の問題ではないということ

まさに差別のこうした側面を描いた映画『ドリーム』が今週末から公開されています。『ドリーム』は1960年代初頭の米国を舞台に、有人宇宙飛行計画に携わった黒人女性たちが逆境に直面しながらも筋を曲げずにがんばる痛快な娯楽作品なのですが、一方で差別とは何かを考える材料を提供してくれるかっこうの作品でもあり、そして今につながるアクチュアリティも兼ね備えている、と前回の記事で書きました。

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1960年代の米国というのは、公民権運動の時代でした。黒人が白人と平等の権利を求めて戦う中で、それまでの差別の許容水準が激しく揺れ動いた時期にあたります。主人公たちが運動に直接関わることはありませんが、その過渡的な時代背景は彼女たちの人生にも大きな影響を及ぼします。

現在を生きる私たちの感覚では、映画の中で描かれる差別のありように驚かされます。レストラン、図書館からトイレ、コーヒーポットに至るまで、白人の使うものと有色人種のためのものが厳しく分けられているさまは、グロテスクというほかありません。しかし、わずか半世紀前の人々は、差別する側も差別される側も、それを当たり前のこと、しかたのないこととして受け入れていたのです。

性的少数者をめぐる差別をめぐっては、現在進行形で許容水準が変動している最中です。諸外国の同性婚法制化の流れとLGBT概念の普及とともに、5年前と今とでは状況が一変したと言ってもいいでしょう。そのような急速な変化に戸惑う人も多いでしょうし、なぜ30年前、5年前には許されたことが今はダメなのか理解できない、息苦しいと感じる人もいるでしょう。しかし、ひとつ確実なことは、1960年代米国における白人と黒人の関係を今の私たちが異様だと感じるように、少し前までの性的少数者に対する社会の態度もまた、半世紀後の人々にとっては、異様でまったく非合理なものとして感じられるようになるだろうということです。

また、「差別する意図はなかった」というのはよく見られる釈明なのですが、これは差別の本質を理解していない発言です。差別は意図の問題ではなく、機能(ある行為や態度が現行の社会のありかたを維持したり変えたりする上で果たす役割)の問題だからです。『ドリーム』に登場する白人の中には、悪意を持って黒人を差別する人間は、実はほとんどいません。白人と黒人の生活空間が厳格に区分され、差別が制度や社会の構造に組み込まれている状態のもとでは、マジョリティは悪意すら持つことなく、自然に、差別的なふるまいを取ることが可能だからです。可能であるだけではなく、そのようなふるまいしか選択肢がない、とさえ言えます。白人が黒人を差別的でなく扱うことは、現行の社会のありかたに反する行為であり、そうとうの勇気と覚悟が必要とされたことでしょう。

「保毛尾田保毛男」というキャラクターを生み出した芸人にも番組の製作者にも「差別の意図はなかった」という説明を僕は信じます。しかし、意図がなかったにも関わらず、差別的な表象を生みだしてしまったのだとしたら、それは意図的な差別よりもさらに悪い状況です。この属性を持つ集団ならば攻撃してもいい、という判断を下すために悪意さえ必要ないならば、それはとんねるずだけの問題ではなく、テレビ業界全体がそのような水準を採用しているからと考えられるからです。そうした水準に裏打ちされたふるまいがメディアで正当化されることが、どれだけ当事者の安全を危うくし、生き方を毀損するか、製作側はもっと敏感になってほしいなと思います。

この問題に関するいくつかの記事

「『知らない』は社会の責任だ -保毛男田保毛男の一件に関して-」 | フミノ | note

  • 三橋順子さんは、テレビで男性同性愛者が笑いの対象とされるようになったのは1990年前後以降であり、その契機がまさに「保毛尾田保毛男」だったのではないか、と指摘しています。

メディアにおける性的少数者への差別(メモ):続々・たそがれ日記:So-netブログ

  • 映画『ドリーム』については、朝日新聞GLOBE掲載の試写会イベントの報告もおすすめです。

映画が現実を動かした~『ドリーム』 -- 朝日新聞GLOBE

映画 “Hidden Figures” から考える、差別とは何か

f:id:eyebw:20170709222441j:plain 先日、邦題が話題になった映画 “Hidden Figures” を飛行機内で見ました。とても良い映画だと思いましたよ。 (邦題が話題になった件は以下の記事が詳しいです)

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“Hidden Figures” は、1950〜60年代の米国の有人宇宙飛行計画「マーキュリー計画」の中で、3人の黒人女性数学者が、人種差別、女性差別を乗り越えて活躍する姿を描いた作品です。はっきり言って演出はベタなんですが、きちんとツボを押さえていて、予備知識がなくても要所要所で胸を打つ物語に仕上がっています。その上で「差別とは何か」というテーマを掘り下げて描いているところが、この作品の素晴らしいところです。

1950〜60年代といえば、米国は公民権運動の時代。当時、職場、交通機関、料理店など公共のあらゆる場で白人と黒人を分離する人種隔離(いわゆる Jim Crow 制度)は、「分離すれども平等」という原則のもと、人種差別にあたらないと正当化されていました。

主人公たちの働くバージニア州にあるNASAの研究所でも、白人技術者たちの職場と、“Colored computers” と呼ばれる黒人女性計算係たちが働く西地区計算部門の建物は離れています。そして、前者には白人専用のトイレが、後者には黒人専用のトイレが設置されています。

主人公の一人、Katherine は優秀さを認められ、西地区計算部門からマーキュリー計画を担う「宇宙任務グループ」の一員に抜擢されます。しかし、宇宙任務グループの入居する建物には白人用のトイレしかないので、彼女は用を足すために半マイル(800メートル)離れた西地区までいちいち行かなくてはなりません。そのような事情を知らない上司は、一日に何度も長時間離席していったい何をしているのか、と彼女を問い詰めます。

Dorothy は子どもたちを連れて町の図書館に出かけます。もちろん、図書館も白人用と黒人用の区画に分けられています。研究所に新設されたIBMの計算機を使えるようになりたいと考えた彼女が、白人用の区画にしか置いていないプログラミングの本をめくっていると、「ここはあなたのいるべき場所ではない」と職員に咎められ、追い出されてしまいます。

Mary は周囲に励まされ、NASAのエンジニアに昇進したいと考えます。NASAのエンジニアとして採用されるためには、大学院で数学と物理を学び、学位を取得する必要がありました。彼女はバージニア大学の夜間課程に通うことにしますが、一つ問題がありました。夜間課程が開講される Hampton 高校は白人専用の高校で、そこに通った黒人は今までいなかったのです。

「差別」と聞くと、暴力、蔑視、いやがらせ、といった悪意の表出を想起しがちです。しかし、たとえそういうものがなかったとしても、差別は制度や慣習などの形で社会に構造的に埋め込まれているのだ、ということをこの作品を示しています。このような差別は、たとえ目の前にあってもなかなか気づくことができません。それは私たちが(しばしば差別される側さえも)差別を内面化してしまうためです。

このような見えにくい差別のもとで、マイノリティは不利益を強いられます。そしてその不公平さを前に諦めたり、余分に努力してマジョリティと同等に、あるいはそれ以上に能力を証明できなかったりすると、「ほら、やはり彼らは劣っているのだ」と指さされることになるのです。なぜなら、マジョリティは自らの特権に都合よく目をつぶり、あたかも対等な条件のもとで競争しているかのように考えたがるからです。自分たちにとって有利なルールが設定されているなんて、思いもよらないことなのです。

今を生きる私たちの目にはとてもグロテスクに映る人種隔離を、たった60年前の人々の多くはごく当然のこととして受け入れていたことに驚かされます。この時代の多くの米国人にとって、白人と黒人が同じトイレを使ったり、同じコーヒーポットからコーヒーを飲むことは、ものすごく不自然なことでした。

ここまで書けば、この作品が60年前の事実にもとづく物語であると同時に、現代に通ずる問題意識を備えていることをお分かりいただけるのではないでしょうか。女性、障害者、LGBT、移民など、さまざまなマイノリティがグロテスクな差別に今も直面しており、そしてマジョリティはそんな現実を無自覚に容認しているのです。「かわいそうだけど、しかたないよ」「前例がありません」「それを変えるためにルールを破ったり、過激なことをするのはちょっとねえ…」という〈常識〉で自らの差別意識に蓋をして。

物語の終盤、Dorothy と西地区計算部門を監督する白人女性 Mrs Mitchell がトイレで会話を交わす象徴的なシーンがあります。Dorothy は実質的に西地区計算部門をとりしきる立場にあったことから、管理職に昇進したい、と何度も Mrs Mitchell に頼んできましたが、「今は忙しい時期だから」と断られ続けてきた、という経緯があります。 Mrs Mitchell は Dorothy にこう言います。

「私はあなたたち黒人女性を差別するつもりはないの。今までだってあなたたちのために力を尽くしてきた」

Drothy はこう返します。

「わかっていますよ。あなたがそう思い込んでるってことは」

この記事では、人種差別に焦点を当てて、映画 “Hidden Figures” を読み解きましたが、他にも

  • 理系分野(米国ではよく、科学・技術・工学・数学を総称してSTEMという言葉が使われます)における女性の representation

  • 革新的な技術(作中ではIBMの計算機、現代なら人工知能)が自分の仕事を代替してしまうときにどう対応するか

といった現代につながる視点も用意されています。このあたりについては、IBMがこの映画の宣伝のために作った一連の動画が面白いのですが、映画鑑賞後にごらんになったほうが良いかもしれませんね。

日本では『ドリーム』というタイトルで9月29日公開だそうです。ぜひ劇場でごらんください。

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津久井やまゆり園の事件のこと

津久井やまゆり園の事件のことが頭から離れない。

優生思想がこれほどまでに「滑りやすい坂」だとは知らなかった、自分の無知に愕然とする。

彼が精神障害持ちだったり薬物の影響下にあったという報道もあるけれど、仮にそうだとしても、犯行にどの程度影響したかはまだ明らかではない。当初「まとまりのない内容」と報じられていた犯行予告文は、陰謀論に侵された箇所を取り除くと、ある前提さえ認めてしまうならむしろ正常な思考とまじめな使命感の産物のように読める。

彼の本当の動機は個人的な鬱屈や絶望感にあり、それを正当化できる捌け口を求めただけなのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、池田小事件や秋葉原事件の加害者が自暴自棄を隠そうとしなかったことと比べると、彼は「自らの感情にまかせて人を殺してはいけない、殺すならしかるべき理由がなくてはならない」という倫理観を持っていた。

「重度障害者は家族や社会を疲弊させ、不幸しか生み出さない。生きている価値がない。彼らは人間ではなく動物として生きている。その線引きは意思疎通ができるかどうかだ」

という思想を彼が本気で信じていたことは、入所者のみを標的とした犯行の手口を見ても明らかだ。

そのような思想は間違っている。そのような倫理観と使命感は身勝手で狂っている。しかし今となっては、せめて、精神障害や薬物のせいで意味不明な妄想にとりつかれたためだ、とか、自暴自棄に陥ったためだ、と犯行を説明できるなら、と思う。そのようにして、“正常”である私たちと“異常”である犯人を切り分けることができたなら、と。

殺人に至るかどうかはともかく、彼の思想そのものは、私たちの社会において、ただちに異常な考え方と棄却できるほど珍しくはない。馴染みの薄い宗教原理主義の論理と違って、私たちの中に感化される人が現れてもおかしくないのだ。

私たちは、犠牲となった方たちの名前を知らない。人となりもわからない。しかし、彼は自分が刺した相手が誰か、どんな人か、よく知っていただろう。重度知的障害のある人たちと日常的に接する機会のない私たちの大部分と異なり、彼は当該施設の職員として日々接し、ケアに関わっていた。そのアクチュアリティの中で優生思想が練り上げられてしまったということを深刻に受け止めなくてはならない。

私たちは、犠牲となった方たちの名前を知らない。人となりもわからない。しかし、加害者がどんな人で、なぜ殺したかは“理解”してしまった。蒸留された憎悪を、中和するものがないままに浴びてしまった私たちは、事件について非対称な理解を余儀なくされていることに自覚的でなくてはならない。

彼がこの社会が生み出した怪物であり、事件が時代の必然的な帰結であるかのような論を、僕は買わない。特異な事例をもとに社会を語ることには慎重であるべきだ。しかし、この事件が社会を変容させ、隠されてきたものを露出させる原因となる可能性は十分あると思う。

優生思想は「滑りやすい坂」だ。

真剣に向き合おうとするなら、命綱をつけて慎重に降りないと、転落して戻ってこられなくなるかもしれない。

坂の下にあるものに共感してしまっても、いや、共感しやすいからこそ、それは間違っている、と何度でも否定しなくてはならない。

自傷他害を繰り返し、周囲に暴言や暴力をふるう人であっても、自分の意思を表現することも他人の意思を理解することも困難な人であっても、私たちが見知った“人間性”からどれだけ離れて見える人であっても、すべての人が生きる権利を持ち、その尊厳を侵してはならないと誓わなくてはならない。

ひそかにささやかれる、偽りの“自然さ”を退けなくてはならない。

障害の有無にかかわらず、私たちの間に線を引くことを許してはならないのだ。

英国のEU離脱から考える:(2)レファレンダムの落とし穴

この投稿は前回の投稿の続きです。

wrinkles.hatenablog.com

前回は、先進国に共通する現象として、新自由主義グローバリズムを推進する体制エリートに強く反発する「反主流の政治」が影響力を拡大したこと、英国のEU離脱はそれを象徴する事件であったことを述べました。

ここでさらに指摘したいのは、国民投票住民投票(以下「レファレンダム」と呼ぶことにします)や、路上での運動のような直接民主主義的な手法が、「反主流の政治」と相性がよいことです。議会は体制エリートの巣窟であり、路上と投票にこそ人々のむきだしの意思が体現される、と彼らは考えるためです。SNSまとめサイトなどの発達によって、人々の動員はより容易になり、一人ひとりの抱える不満を拾い集めてまとまって可視化することもできるようになりました。

また「反主流の政治」に共感しない人であっても、レファレンダムによって、有権者の意思を直接政治に反映できるのは良いことだと考える人も多いかもしれません。それに対し、以下ではレファレンダムを実施するにあたっての「落とし穴」がどこにあるか、考えていきます。

先に断っておくと、僕は、英国でEU離脱派が勝ってしまうようなシステムはおかしい、と言いたいのでありません。EU離脱支持が多数を占める結果に、ポピュリズムに煽られて愚かな選択をした、という見方もあるようですが、僕はそれには与しません。確かに英国がEUを脱退することは、英国にとってもEUにとっても損が大きいように見えますが、どちらが国民の利益にかなった選択だったかは歴史が証明するのを待つしかないと思います。

ここで考えたいのは、“Brexit”に固有の事情ではなく、より一般に、政治的共同体がレファレンダムを実施しようとする際に留意すべき陥穽は何か、ということです。われわれが英国の国民投票から学べることを3つ、挙げたいと思います。

一つは、レファレンダムが表す民意が不安定なものであるにもかかわらず、その不安定さに不釣り合いな強い政治的正統性が与えられてしまうことです。キャメロンは国民が残留を選ぶと見込み、国民投票の付与する強大な正統性によって反主流派を抑えこみ、政権の求心力を高める算段だったと見られています。しかし、それは危険な賭けであり、結果として彼は賭けに敗れることになりました。しかし、たとえば投票日が1ヶ月前だったら、あるいは1ヶ月後だったら、結果は逆になっていたかもしれません。

状況の変化や突発的な事件に左右されやすい投票結果を、公共的な議論と熟慮がなされた結果としての民意をどのくらい同一視すべきところか、難しいところです。そもそも英国の有権者数は4650万人、国民投票の投票総数は3350万票とされており、このような規模で熟議による市民の意見形成を期待するのは無理でしょう。直接民主主義を議会制民主主義に優先させる政治においては、メディア戦略とマーケティングが大きな影響力を発揮することになることが想像されます。もっとも議会政治に重点が置かれれば、陳情活動、ロビイングがものをいうことになるわけですから、どちらがマシかは微妙なところです。

二点目として、レファレンダムでは政治家を選択するのではなく、イシューへの賛否を選択することになるので、一方の立場が選択されたとしても、それを推進してきた政治家が公約の実現にコミットする責任が弱くなります。英国では、離脱派の中心人物と目されたファラージがUKIP党首を辞任して一線を退くことになり、物議を醸しましたが、これはわかりやすい事例です。

また、公約の実現に対する責任が弱いため、根拠が薄弱でも都合の良いことを投票前に言って支持を拡大するインセンティブが強く働きます。たとえば、離脱派はEUを離脱すれば「巨額の分担金を国民医療サービスの充実にまわせる」とか「移民の流入を食い止められる」と主張していましたが、ボリス・ジョンソンやファラージはこれらの主張を投票翌日に撤回して人々を唖然とさせました。

明らかなデマについては事実の誤りをいちいち指摘することで、ある程度は対処できるかもしれません。しかし、物理的に不可能ではないが政治的に現実味がない無責任な約束を封じ込めることは困難です。「そんなことは現実的には不可能だ」という批判は、既成の政治の常識に挑戦することを看板に掲げる者にとってはむしろ追い風になってしまうからです。

三点目として、レファレンダムは社会の中の分断を過剰に可視化してしまうことが挙げられます。選挙区ごとに報告される投票結果は年齢、教育水準、所得水準、失業率、外国人比率などの住民の人口構成や出口調査とも引きあわせて、デモグラフィックな分析の対象となります。メディアはその分析をグラフやインフォグラフィックなどを使ってわかりやすい形で提示します。

英国の国民投票を見ても、大都市部とスコットランド北アイルランドでは残留派が多数を占めたのに対して、イングランドウェールズの地方部で離脱派が勝利するなど、明白な地域差が見られました。また高齢者ほど、教育水準が低いほど、移民が少ない地域ほど、離脱を支持したと言われています。*1

f:id:eyebw:20160720212313p:plain (出典:Telegraph

しかし、この「わかりやすさ」をどの程度、真に受けるべきでしょうか。そもそも、このようなデータの取り扱いには統計学の知識が必要とされます。さらに、以下のような問題点があると考えられます。

いざ票を投じるにあたり、何が賢明な選択なのか、迷いがある有権者も多いでしょう。どちらの立場にも一定の理があり、また問題の規模が大きくて複雑なために賛否が分かれるようなイシューがレファレンダムにかけられるわけですから、有権者は明確な党派性を持っているのでない限り、難しい判断を迫られます。しかし、そのような迷いを投票行動で表現することはできません。参政権を行使したいと思うなら、自らの政治的な意見や利害のスペクトラムをYES/NOのどちらかに収斂させて、票を投じるほかないわけですが、そうした一票の集積が全体の結果にどのように反映されるかは未知数です。

レファレンダムの結果が政治的な意思決定として尊重されるべきなのは当然です。しかし、逆に言えば、あくまで政治的な意思決定のしくみであって、統計調査ではなく、調査の代替物として扱うなら相応の慎重さが求められます。実際には幅と揺らぎのある民意から、一人ひとりの有権者の択一の結果として現れる数字が、地域、人種、階層、世代等の違いによる分断を過度に強調し、あたかも本質的で乗り越えられない溝が存在するかのような印象を与えてしまうとしたら、それは好ましいことではありません。

レファレンダムによる直接民主主義は、一見、とても明快で透明性の高い手法のようなので、技術と費用が許すなら望ましいと考える人も多いかもしれません。しかしその実、危うさとある種の政治性を秘めていることは以上で見たとおりです。政治的な意思決定の手段として否定はしないものの、実施にあたっては議会制政治とは異なる注意が必要とされることは間違いないと思います。

英国のEU離脱から考える:(1)新自由主義の終わりと「反主流の政治」

英国のEU離脱、いわゆる"Brexit"が国民投票で決まってから3週間が経ちました。国民投票がこのような結果となった原因と今後の展開についてはすでに分析が一巡しており、またこの間に英国の政治状況も激動していて、門外漢の僕が加えることはありません。ここではもう少し長期的な視座に立って、Brexitが意味することとは何か考えたいと思います。

この30年の歴史の話から始めましょう。1980年代以降の西側先進国の政治においては、国や時期によって濃淡はあるものの、ずっと新自由主義新保守主義のモードが支配的だったといえるでしょう。保守政権では、「小さな政府」を標榜した80年代のレーガンサッチャー、中曽根に始まり、小泉、サルコジ、そしてもちろん、冷戦後の世界に民主主義の理念を「輸出」すると唱えて、中東に軍事的に介入したブッシュ父子。

一方で、左派・リベラルもそれに引っ張られる形で、社会的公正に目配りしつつ、公共サービスの民営化による効率重視とグローバル化を志向する路線を採用します。ブレア、クリントンシュレーダーなどの「新しい中道」「第三の道」などがそれです。1992年のEUの創設と単一市場の完成、99年のユーロ導入など、EUの統合の深化の歩みはこうした政治的潮流と無関係ではありません。また、日本の民主党政権も、特に鳩山・菅時代は基本的にこの路線を目指していたと思います。

これに対し、新自由主義グローバル資本主義を批判する運動もずっとあって、一方では移民排斥を訴える「新右翼」と呼ばれる極右政党がヨーロッパ各国に出現します。他方では1999年にシアトルでWTO会合を中止に追い込んだ抗議活動に代表されるように、市民団体・NGOが主役となり、デモと直接行動を旨とする「新しい社会運動」が活発化します。しかし、2000年代前半まではまだ、このような左右からの批判が継続的な支持を集めるには至りませんでした。

潮目が変わったのは、一つはイラク戦争の泥沼化、もう一つは2008年の金融危機、そして中国・ロシアの野心的な外交政策も加えてもいいかもしれません。これらを契機として、米国の覇権が傾くとともに、格差の拡大が新自由主義的な市場重視の帰結だという感じ方が先進国の多くで広がりました。

この状況は各国で路上での運動に多くの人を集めることになりました。アラブの春、スペインの15M、日本の反原発、米国のオキュパイは全部2011年に起こっています。台湾のひまわり学生運動、香港の雨傘運動、日本のSEALDsもこの延長線上にあるといっていいと思います。 一方、在特会をはじめとする「行動する保守」の出現は、極右側もまたデモを主軸に運動を組み立てるスタイルを採用し始めたことを意味します。欧米でもこのような極右側の路上での運動は歴史があると思いますが、その歴史については僕はよく知りません。最近では、ドイツのPEGIDAなどが注目を集めていますね。

路上での運動に呼応する形で、政治の世界でもより大きな変革を求める主張が目立つようになります。そして、それまで過激とみなされてきた発言に予想外の注目が集まるようになります。

スペインでは反緊縮を掲げて2014年に結成された新興政党ポデモスが躍進し、英国では時代遅れの極左と思われていたコービンが熱烈な支持を得て労働党党首に選ばれました。米国でもサンダースがオキュパイ運動の"We are the 99%"の叫びを引き継ぎ、富の偏在を批判して、民主党の大統領予備選で大きな存在感を発揮しました。彼らに共通するのは、「経済を一部の大企業や金融機関に独占させるのではなく、私たち99%の手に取り戻そう」というメッセージが、いわゆる「ミレニアル世代」と呼ばれる学生や若者たちを中心に共感を呼んでいる点にあります。

一方で、マリーヌ・ルペン率いるフランスの国民戦線やドイツの新興政党「ドイツのための選択肢」など極右政党が、移民危機を背景にヨーロッパ各国で党勢を拡大しつつあります。米国では草の根運動として始まったティーパーティーが連邦議会に議員を送り込むようになり、さらに不法移民に対する強硬な入国管理政策を主張するトランプが共和党の大統領選で旋風を巻き起こして候補指名を勝ち取りました。そして英国の国民投票でも、前ロンドン市長ボリス・ジョンソンやUKIP党首のファラージらが、移民の増加、分担金の負担、そしてEU官僚主義に対する不満を語って、離脱派を勝利へと導きました。彼らのスローガンが「Take back control(コントロールを取り戻そう)」であったことを示唆的です。

左派と右派。政治的な立場は真逆なのに、これらの運動はある点において奇妙な一致を見せています。すなわち

  • 市場の自由を謳う新自由主義と、越境の自由を謳うグローバリズムを強く批判し、それらが私たちのものを不当に奪い、生活を苦しめる元凶であると名指しすること。
  • 主流の「まっとう」な政治、体制エリートが主導し大企業が支持する政治に対して、自らを非主流、周縁に位置づけ、それゆえに、誰もが心の中でうすうす感じていながら口にするのをはばかってきた「不都合な真実」を、利害関係に縛られることなく、歯に衣着せず発言することができるんだとアピールすること。
  • 体制、エリート、金持ち、知識人、既成権力に対して反乱を起こそう。彼らが独占してきた利権を打破し、決定権を自分たちの手に取り戻そう。彼らは理屈ばかりこねるけれど、私たちの痛みと怒りをわかっちゃいない。庶民の身体感覚、生活感覚と直結した政治を実現しよう。と訴えること。

このような大衆の情動に働きかける「反主流の政治」はポピュリズム反知性主義といった烙印を押されながらも急速に先進国の政治を飲み込みつつあります。英国の国民投票の結果は、「主流の政治」の敗北と、30年間、先進国を覆ってきた新自由主義グローバル資本主義の結合を基調とする政治のモードの終焉を象徴しているように思います。